Chapter 07
IIR フィルタの基礎【本丸】
これまでの道具(畳み込み、Z 変換、伝達関数、極零点、安定性)を使って IIR フィルタそのものを理解する。
1. FIR と IIR — 定義
デジタルフィルタはインパルス応答\(h[n]\)の長さで 2 種類に分類される:
| FIR (Finite Impulse Response) | IIR (Infinite Impulse Response) | |
|---|---|---|
| インパルス応答 | 有限長(いつか完全に 0 になる) | 無限長(無限に続く) |
| 差分方程式 | \(y[n] = \sum_{k=0}^{M} b_k x[n-k]\) | \(y[n] = \sum b_k x[n-k] - \sum a_k y[n-k]\) |
| フィードバック | なし | あり(過去の出力を再利用) |
| 伝達関数 | 多項式(極は原点のみ) | 有理関数(原点以外に極を持つ) |
| 安定性 | 常に安定 | 極が単位円内のときのみ安定 |
| 位相 | 線形位相にできる | 厳密な線形位相は不可能 |
| 必要な次数 | 多い | 少ない(同じ仕様なら 1 桁少ないことも) |
直感
- FIR: 「直近\(M+1\)個の入力を混ぜるだけ」。記憶は窓の長さぶんしかない。バケツリレー。
- IIR: 「自分の過去の出力を材料に再利用する」。一度入った信号の影響がフィードバックループを 回り続けるので、たった 1 発のインパルスの余韻が(減衰しながら)永遠に残る。 お風呂にコップ 1 杯の熱湯を入れたときの温度変化のように、影響は指数的に薄まるが厳密には消えない。
2. 最小の IIR: 1 次フィルタの完全解析
これは実務で最も使われる指数移動平均 (EMA: Exponential Moving Average)。 「新しい入力を\((1-a)\)だけ取り入れ、これまでの状態を\(a\)だけ保つ」平滑化フィルタである。
2.1 インパルス応答の導出(方法 1: 逐次代入)
\(x[n] = \delta[n]\)を入れ、初期条件\(y[-1] = 0\)(因果的・初期静止)で 1 ステップずつ計算する:
パターンより(帰納法:\(y[n] = (1-a)a^n\)を仮定すると\(y[n+1] = a \cdot (1-a)a^n = (1-a)a^{n+1}\)✓):
\(n\)がいくら大きくても\(h[n] = (1-a)a^n \neq 0\)。インパルス応答が無限に続く = IIR の名の由来を、 最小の例で確認できた。
2.2 インパルス応答の導出(方法 2: Z 変換)
差分方程式を Z 変換(時間シフト性質\(y[n-1] \leftrightarrow z^{-1}Y(z)\)):
05 章の対\(a^n u[n] \leftrightarrow \frac{1}{1-az^{-1}}\)(ROC:\(|z|>|a|\)、因果的)より:
方法 1 と一致。∎ 極は\(z = a\)の 1 個。\(0 < a < 1\)なら単位円内 → 安定(06 章の定理どおり)。
2.3 周波数特性の導出
\(z = e^{j\omega}\)を代入:
振幅の 2 乗を計算する。分母の絶対値の 2 乗は:
よって:
端点の値:
- \(\omega = 0\):\(|H|^2 = \dfrac{(1-a)^2}{1 - 2a + a^2} = \dfrac{(1-a)^2}{(1-a)^2} = 1\)→ 直流はそのまま通す(ゲイン 1)
- \(\omega = \pi\):\(|H|^2 = \dfrac{(1-a)^2}{1 + 2a + a^2} = \dfrac{(1-a)^2}{(1+a)^2}\)→ 高域は\(\left(\dfrac{1-a}{1+a}\right)^2\)倍に減衰
\(\cos\omega\)は\(\omega: 0 \to \pi\)で単調減少なので分母は単調増加、つまり\(|H|\)は単調減少 = ローパスフィルタ。
カットオフ周波数(−3dB 点)の導出:\(|H|^2 = \tfrac{1}{2}\)となる\(\omega_c\)を求める:
例:\(a = 0.9\)→\(\cos\omega_c = \frac{3.6 - 0.81 - 1}{1.8} = \frac{1.79}{1.8} \approx 0.9944\)→\(\omega_c \approx 0.105\)rad/sample。 \(f_s = 48\)kHz なら\(f_c = \omega_c f_s / 2\pi \approx 805\)Hz。 \(a\)を 1 に近づけるほど極\(z=a\)が単位円に近づき、カットオフが下がって平滑化が強くなる。

2.4 位相特性と群遅延
(\(1 - ae^{-j\omega} = (1 - a\cos\omega) + ja\sin\omega\)の偏角。分子は正の実数なので偏角 0。)
群遅延の定義は\(\tau_g(\omega) = -\dfrac{d\angle H}{d\omega}\)。「その周波数付近の波の包絡線が何サンプル遅れて出てくるか」を表す。
これが\(\omega\)に依存して変わる(= 非線形位相)のが IIR の宿命で、 周波数によって遅延量が異なるため波形が崩れる。音声・オーディオでは問題にならないことが多いが、 波形の形が意味を持つ用途(計測、データ伝送、心電図など)では FIR の線形位相が好まれる。
3. なぜ IIR は低次数で済むのか(直感 + 図形的説明)
同じ「鋭い」ローパス特性を作るのに、FIR は 100 次以上、IIR は 4〜8 次で済むことがよくある。理由:
- FIR の道具は零点だけ。零点は特定の周波数を「谷」にすることしかできない。 鋭い遮断を作るには大量の零点(= 高い次数 = 長い畳み込み)で通過域の外を敷き詰める必要がある。
- IIR は極が使える。極を単位円のすぐ内側、通過域の端に置くと、 その周波数のゲインが距離の逆数\(\frac{1}{|e^{j\omega}-p|}\)で強烈に持ち上がる。 少数の極で通過域の平坦さと遮断の鋭さを同時に「てこの原理」的に稼げる。
たとえるなら、FIR は「彫刻刀で削って形を作る」、IIR は「共振(増幅)も使って形を作る」。 共振という強力な道具の代償が、安定性への注意と位相の非線形性である。

4. biquad(双 2 次)セクション — IIR の実用単位
実際の IIR フィルタは、次の 2 次セクション (biquad) を基本ブロックとして使う:
なぜ 2 次を単位にするのか
実係数フィルタの極・零点は「実数」か「複素共役対」(06 章)。 複素共役対\(p, p^*\)をひとまとめにすると係数が実数の 2 次式になる:
(\(p + p^* = 2\mathrm{Re}(p)\)、\(p p^* = |p|^2\)はともに実数。) つまり 2 次が「実数係数のまま複素極を 1 対持てる最小単位」。 高次フィルタは biquad の縦続(カスケード)接続で作る(数値的理由は 09 章)。
biquad の安定条件の導出(安定三角形)
分母\(D(z) = 1 + a_1 z^{-1} + a_2 z^{-2}\)の根(極)が両方\(|z| < 1\)にある条件を係数で表す。 \(z^2\)を掛けた\(z^2 + a_1 z + a_2 = 0\)の根を\(p_1, p_2\)とすると、根と係数の関係より:
条件の導出: 多項式\(P(z) = z^2 + a_1 z + a_2\)について、両根が単位円内にあるための必要十分条件は 次の 3 つである(2 次に対するジュリー安定判定):
- \(P(1) > 0\):\(1 + a_1 + a_2 > 0\)
- \(P(-1) > 0\):\(1 - a_1 + a_2 > 0\)
- \(|a_2| < 1\)
導出:
- (必要性) 両根が単位円内 (\(|p_1|, |p_2| < 1\)) なら:
- \(|a_2| = |p_1 p_2| = |p_1||p_2| < 1\)→ 条件 3。
- 実根の場合\(-1 < p_1, p_2 < 1\)なので\(z=1\)と\(z=-1\)は両根の外側にあり、 上に凸でない 2 次関数\(P\)は区間\((p_1, p_2)\)の外で正。よって\(P(1) > 0\)かつ\(P(-1) > 0\)→ 条件 1, 2。
- 複素根の場合\(P(z) = (z - p)(z - p^*)\)で、実数\(t\)に対して\(P(t) = |t - p|^2 > 0\)。よって条件 1, 2 は自動的に成立。
- (十分性) 逆に 3 条件が成り立つとする。
- 複素根なら\(|p_1|^2 = p_1 p_1^* = a_2 < 1\)(条件 3)より両根とも単位円内。
- 実根なら\(P(1) > 0, P(-1) > 0\)より、根は区間\((-1,1)\)の外に「またがって」いない (\(P\)は根の間でのみ負になるため、\(\pm 1\)がともに根の間に入らない)。 可能性は (i) 両根とも\((-1,1)\)内、(ii) 両根とも\(1\)より大、(iii) 両根とも\(-1\)より小、 (iv) 片方が\(1\)より大かつ片方が\(-1\)より小。 (ii)(iii) は\(|p_1 p_2| = |a_2| > 1\)となり条件 3 に矛盾。(iv) も\(|p_1 p_2| > 1\)で矛盾。よって (i)。∎
\((a_1, a_2)\)平面でこの 3 条件が描く領域は三角形になるので安定三角形と呼ぶ:
a₂
1 ┌─────────────┐
│\ 安定 /│ 頂点: (a₁,a₂) = (-2,1), (2,1), (0,-1)
│ \領域 / │ 境界線: a₂ = 1+a₁, a₂ = 1-a₁, a₂ = ±1... の内側
│ \/ │
─────┼────────────── a₁
-1 └───(0,-1)───┘
-2 0 2実装でフィルタ係数を動的に変える(例: シンセのフィルタスイープ)ときは、 係数がこの三角形から出ないことを保証する必要がある。

5. IIR の長所・短所まとめ
長所
- 同じ振幅特性なら FIR より圧倒的に低次数 → 計算量・メモリ・遅延が小さい
- アナログフィルタの蓄積された設計理論(バタワース等)をそのまま流用できる(08 章)
- 鋭い共振・急峻な遮断が少ない係数で作れる
短所
- 安定性の管理が必要(係数誤差・量子化で極が単位円外に出ると発振)
- 位相が非線形(波形が歪む)
- フィードバックがあるため量子化誤差が循環する(リミットサイクル等、09 章)
- 内部状態を持つため、係数変更時の過渡応答に注意が要る